耶律 楚材(やりつ そざい、1190年 - 1244年)は、初期のモンゴル帝国に仕えた官僚。字は晋卿。禅に深く帰依し、湛然居士と号した。モンゴル名はウルツサハリ(「髭の長い人」の意)。
生涯 [編集]
楚材の家は遼(契丹)の太祖耶律阿保機の長男である東丹国の懐王(義宗・天譲帝)耶律突欲(とつよく、または図欲=とよく、漢姓名は劉倍)の九世の末裔とする遼の王族出身であり、出自は契丹人であるが、代々中国の文化に親しんで漢化した家系である。遼の滅亡後は金に官僚として仕え、祖父は耶律聿魯で、父の耶律履は金制においては宰相級の重職である尚書右丞に昇った。楚材は父が高齢になり、三男(末子)として生まれた子で、3歳の時に父が61歳で死んだため漢人である生母の楊氏に厳しく育てられた。また、異母兄の耶律弁才・耶律善才は彼よりも20歳も年が離れていたが、彼は生母と共に兄達から養われたという。
成人すると宰相の子であるために科挙を免ぜられ、代替の試験を首席で通過して尚書省の下級官僚に任官した。モンゴルが金に侵攻したときは首都の中都(現在の北京)で左右司員外郎を務めていたが、1214年に中都が陥落したとき捕虜となった。楚材は家柄がよく長身長髭で態度が堂々としており、中国の天文と卜占に通じていたためチンギス・カンの目に止まり、召し出されて中国語担当の書記官(ビチクチ)となり、ハーンの側近くに仕えることになった。1219年からの中央アジア遠征でもチンギスの本隊に随行してもっぱらカン側近の占星術師として働き、そのときの体験と詩作を『西遊録』に残した。
チンギスの死後に後継者を巡ってクリルタイが紛糾すると、チンギスの遺志を尊重してオゴデイを立てることを説き、オゴデイの即位に大きく貢献したとされる。ただし、モンゴル貴族ではない楚材がクリルタイに出席して発言権をもったとするには無理があり、この話は中国で書かれた史料にしか伝わっていないことから、この逸話は疑わしいという説もある。
オゴデイが即位すると、新ハーンにも書記として仕え、中国語で中書省と呼ばれた書記機構の幹部となり、北中国の金の旧領の統治に携わった。楚材は、あるモンゴル軍人が、華北の大平原を無人にすれば遊牧に適した土地になるから捕虜とした中国人を皆殺しにしようと進言したのを押しとめ、捕虜たちを「万戸」と呼ばれる集団に分けて3つの万戸を置き、各万戸ごとに農民・職人など職業によって大別した戸籍をつくって、戸単位に課税する中国式税制を導入させた。新税制の導入によりモンゴル帝国は定住民からの安定して高い税収を得ることができるようになり、オゴデイはこれに感嘆して楚材を賞賛したという。
1234年にモンゴルが金を最終的に滅ぼし北中国を併合した後には、中国式に全土をハーンの直轄領にするために、モンゴル貴族に征服した領土を分与することに反対したが、これは黙殺された。また、儒学を家業とする家を「儒戸」に指定する制度を考案し、税を軽減するかわりに儒教の学問と祭祀と行わせ、実務官僚層の供給源とした。オゴデイは中国の歴代王朝にならって孔子の子孫を保護するが、これも楚材の進言によるとされる。
しかしオゴデイの晩年には、西アジア式に人を単位として課税する人頭税制度を中国に導入することを説く中央アジア出身のムスリム(イスラム教徒)財務官僚層が台頭して中国行政について干渉するようになり、伝統的な中国式統治システムを維持しようとする楚材らの派と対立した。結局、西アジアの財務官僚に任せる方が単純に収入を確保しやすいことからモンゴル人は彼らを重用するようになり、楚材らは信任を失っていった。
1241年にオゴデイが没した後はほとんど発言力をもたず、その3年後失意のうちに没した。楚材は清貧の美徳を守ったので、その遺産は琴と書物が残るばかりであったという。詩作をよくし、詩集に『湛然居士集』がある。
梁氏が産んだ長男の耶律鉉が30前後で早世したために、鄭氏が産んだ末子の耶律鋳が跡を継いだ。後に鋳は嫡子の希亮と共にクビライに仕えて中書左丞相に上ったため楚材は再評価され、太師、上柱国を贈られ、広寧王に追封されて文正と諡された。
楚材の虚実と毀誉褒貶 [編集]
耶律楚材は中国や日本において、古来非常に高く評価されている。これは、モンゴル帝国の最初期において、いまだ国家の体制も定まっていない遊牧民の連合政権であったモンゴル帝国に中国の文人官僚を代表して仕え、中国統治の実務担当者として活動したとされることによっている。
しかし、さらに進んで耶律楚材はチンギスの最も信頼できるブレーンであったとか、オゴデイの時代に大ハーンを補佐し、モンゴル帝国の拡大を支えた宰相であったとされているのには若干の問題がある。このような見方に対するもっとも根本的な反論としてあげられるのは、楚材はチンギスの中央アジア征服をモンゴル帝国の歴史を記した網羅的な歴史書である『集史』をはじめとするペルシア語の歴史書に一切名前が登場せず、東アジアの中国(漢文)史料にしか名前があらわれないことである。
また、従来は楚材がチンギスの中央アジア遠征に随行し、様々な助言を行ったことからチンギスに参謀として仕えたとされていた。しかし、それ自体が楚材を高く評価している『元史』「耶律楚材伝」ですら、楚材がチンギスに対して天文の占いと予言以外の仕事をしたことを伝えておらず、『元史』以外の中国史料においても、書記、通訳以外の業績が一切伝わっていない。楚材自身「自分は書記であって軍国の議には預かることはできない」と自ら述べたこともある。
また、楚材をモンゴル帝国の宰相とみなすのは、オゴデイ政権期の楚材の肩書きが中国語で「中書令」と呼ばれていることによる。中書令は唐以来、最高位の宰相職であり、モンゴル帝国においてものちのクビライ時代に皇太子・チンキム(真金)が中書令に就いている。しかし、クビライの時代とことなってオゴデイの時代には中書省は宮廷に付随した書記(ビチクチ)の文書行政処理機関といった程度の役割しかなかったのが実態であり、その長官の中書令といってもそれほどの重職ではない。しかも、南宋からモンゴルに送られた使節が書いた報告書から、楚材ら漢文担当の書記が書いた勅令も、ウイグル文担当の書記・鎮海(チンハイ、ケレイト族出身)がサインをしなければ発効しなかったことが明らかにされている。
従って、中書令耶律楚材は、実際にはモンゴル帝国の北中国(旧金領)方面の文書行政を司る中国語担当の書記のリーダーであった、というのが実態のようである。しかも、当時の北中国は金滅亡後の混乱に乗じて台頭し、モンゴルの支配下に入った中国人の軍閥(漢人世侯)が在地権力を握っており、またモンゴルの貴族達がその上級領主として君臨していたので、楚材の権限は非常に限られたものであった。
日本のモンゴル史学者、杉山正明は、著書『耶律楚材とその時代』(1996年)で楚材に関する碑文や楚材自身の書き残した文章の分析から、楚材が宰相として中国人から賞賛されたのは、楚材自身がそのような虚栄を好む小人物であったからだと結論し、楚材の人格も否定的に論評している。
一方、陳舜臣の小説『耶律楚材』(1994年)のあとがきでは、次のように記されている。
「この作品で利用した資料は、楚材の著作をはじめ、すべて漢文の文献である。モンゴル史は、漢文だけでなく、ペルシア文献も参照すべきであるが、不思議なことに、ジュワイニーやラシードなどのペルシア文献には、耶律楚材の名はまったくでてこない。なかには、彼はそれほど重要な人物ではなかったと推測する人もいる。だが、彼の詩文を読んでも、たとえば息子の鋳が十五歳になったときに与えた詩に、「忝なくも位は人臣を極め」とあるように、彼がモンゴル政権の中枢にいたことはたしかである。
おもうに彼の努力は、儒仏に根づいた文明と人名を、大破壊から守ることに集中されていて、戦争が上手であったのでもなく、税収の成績をあげたのでもない。イスラム史家の立場からみれば、楚材にはしるすに足る業績がなかったことになる。
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